武蔵野
2024年08月08日10:01埼玉のソウルフード、冷汁(ひやしる)

8月8日はInternational Cat Day

お盆前の時期で、日中の猫さんたちは廊下の隅に落っこちていることが多くなりました。我が家のにゃんずは長毛種ではないものの、毛むくじゃらの中身は相当暑そうです。昼下がりから夜にかけては冷たいフローリングの床がある部屋や廊下にへそ天で寝転がっています。
猫さんたちのような毛皮を着ていない人間にとってもこの暑さは堪えるので、昔から我が家がある辺りのお昼はうどんを冷汁で掻き込むスタイルだったようです。
夏、暑いことですっかり有名になってしまった熊谷を中心として、油照りの上に風が吹かない盆地のような形状をしているエリアなので、夏も半ばに近付くといわゆる夏負けの度合いが進んで食欲が落ちるので、ご飯でもうどんでも冷汁をかけて食べるのが武州の夏の風物詩です。
猫さんたちのような毛皮を着ていない人間にとってもこの暑さは堪えるので、昔から我が家がある辺りのお昼はうどんを冷汁で掻き込むスタイルだったようです。
夏、暑いことですっかり有名になってしまった熊谷を中心として、油照りの上に風が吹かない盆地のような形状をしているエリアなので、夏も半ばに近付くといわゆる夏負けの度合いが進んで食欲が落ちるので、ご飯でもうどんでも冷汁をかけて食べるのが武州の夏の風物詩です。
荒川流域に伝わる郷土料理「冷汁」

「冷汁」は世間では宮崎県の郷土料理として認知されているようですが、荒川流域のこの辺りでも昔から食べられてきたようです。その由来には諸説あって、Wikipediaを見ても決定的な発祥の経緯は定まっていません。こういういわゆる起源論争はなかなか決着が付かないもので、それは例えば邪馬台国論争を見ても、学問的な正統性はおいても未だに近畿と北九州で比定先を争っている状況ですから、起源だ元祖だと謳えるものがあるというのは実利的な見返りがあるのでしょう。ちなみに私は北九州説には無理があるので常識的な近畿説を支持しています。
さて冷汁の方なんですが、さっきまでとうってかわってわりと無責任にこの土地に住んでいる立場から主観的な物言いをするならば、冷汁の起源は此処、武蔵野の草深い平野部だったと思うのです。
もし反対に宮崎周辺の発祥であるなら、比較的近い時代、明治以降の伝来なのではないかと考えられるのですが、そういった方向性の移住が歴史的には見当たらないと思うのです。明治維新以降の薩藩(日向には支藩の佐土原藩がありました)からの東京への移住、というのは少し魅力的な考えなのですがそれらが埼玉まで広く影響するという感じは薄く、北関東に広がる冷汁のオリジンとはなり得ない気がします。
一方で武州から日向へは鎌倉期の惟宗忠久(名家島津家の始祖です)が畠山重忠や比企氏との関係が深いという故事からもなんとなく状況証拠が揃っている感じがします。なによりも、冷汁は炎天下で農作業を行う人々にとっての賄いのような食べ物ですから、鎌倉幕府の成立とともに草深い武州の武士(生業は当然公田請作)たちが守護だ地頭だその下僚だといった経緯で日州に移り住んでいく過程で伝わったのではないかと私の先入観が構成されてしまっているのです。
我が家の冷汁レシピ
庭でキュウリ、ナス、ネギ、ミョウガ(柿の木の下に自生してます)、大葉(縮緬青紫蘇)を採ってきます。
野菜をよく洗い、キュウリは1-2mm程度の薄い輪切り、ナスもキュウリの倍くらいの厚さで輪切り、ネギは小口切り、ミョウガは斜めに薄く輪切り、大葉は軸を取ってくるくると巻いて刻みます。
キュウリとナスはそれぞれ塩でよく揉んでから10分ほど置き、水気を絞っておきます。
すり鉢に味噌と出汁、砂糖、醤油、そして良く焼いてからほぐした魚の身(アジやサバの干物がオーソドックスでエボ鯛やノドグロのような脂の乗った魚は特に美味しくなります)を良く摺って、水気を切ったキュウリとナスを加えて良く揉み込みます。そこに水を加えて(後で氷を入れるので少し濃いめにしておくのがポイントです)醬油で味を調整して、ネギ、ミョウガと大葉を薬味として加えます。入れ過ぎると辛味やえぐみが強くなるのでお好みの量で。さらに白ごまを炒って摺ったものを加え氷を浮かべたら完成です。
温かいご飯にかけて啜り込んでも良し、冷水で冷やしたそうめんやうどんのつけ汁にしても良しです。
生のナスの灰汁っぽさやキュウリの青臭さ、ネギの辛味、ミョウガのえぐみ、大葉の強い香り、良く焼いた魚の身から出る出汁、字面で判断したらとても食べられたものではないように思えますが、これらが混然一体となった冷汁はとても日本的な旨味の重ね方で美味しいのです。冷蔵庫に魚が無ければ、和風顆粒だしと化学調味料でも十分美味しく作れます。魚を焼かなければ火を一切使わないで済むのも夏のお昼にちょうど良いところです。
暑い時期に冷汁を食べていると、数世代前の先祖が暑い時期に野良作業をして米の飯がのどを通りにくくなった際に同じように冷汁で米を流し込んでいる様子が脳裏に浮かびます.。
キュウリとナスはそれぞれ塩でよく揉んでから10分ほど置き、水気を絞っておきます。
すり鉢に味噌と出汁、砂糖、醤油、そして良く焼いてからほぐした魚の身(アジやサバの干物がオーソドックスでエボ鯛やノドグロのような脂の乗った魚は特に美味しくなります)を良く摺って、水気を切ったキュウリとナスを加えて良く揉み込みます。そこに水を加えて(後で氷を入れるので少し濃いめにしておくのがポイントです)醬油で味を調整して、ネギ、ミョウガと大葉を薬味として加えます。入れ過ぎると辛味やえぐみが強くなるのでお好みの量で。さらに白ごまを炒って摺ったものを加え氷を浮かべたら完成です。
温かいご飯にかけて啜り込んでも良し、冷水で冷やしたそうめんやうどんのつけ汁にしても良しです。
生のナスの灰汁っぽさやキュウリの青臭さ、ネギの辛味、ミョウガのえぐみ、大葉の強い香り、良く焼いた魚の身から出る出汁、字面で判断したらとても食べられたものではないように思えますが、これらが混然一体となった冷汁はとても日本的な旨味の重ね方で美味しいのです。冷蔵庫に魚が無ければ、和風顆粒だしと化学調味料でも十分美味しく作れます。魚を焼かなければ火を一切使わないで済むのも夏のお昼にちょうど良いところです。
暑い時期に冷汁を食べていると、数世代前の先祖が暑い時期に野良作業をして米の飯がのどを通りにくくなった際に同じように冷汁で米を流し込んでいる様子が脳裏に浮かびます.。
もうひとつ懐かしい味、地粉の手打ちうどん
このブログでも再々書いているのですが、荒川寄りの低地側や小高い丘陵地帯の脇にある平野部と違い、荒川の削った段丘部上段では水利が良くありませんので、この周辺は昔から稲作より麦を作る地域だったと思われます。実際に小麦の生産は今でも多いのですが、地粉を使ったうどんはこのエリアの名物です。
平成初期まではどの家にも台所の片隅や、この辺りの方言で云うところの「西脇」という部分にうどんを打つための専用スペースがありました。それゆえ、お昼はほぼ手打ちうどんで夕食も同じく手打ちうどんとご飯の炭水化物重ね食いが多かったものです。
自家製の手打ちうどんは普通野菜(ナスやインゲン、ネギ)を油で炒めてから水を加えてダシと化学調味料、そして大量の醤油と砂糖で味を付けた「真っ黒」なつけ汁で食べます。関西圏の人はもちろんですが南関東の人でもびっくりするほど「真っ黒」くてしょっぱいつけ汁は北関東の味です。秋冬春とそのつけ汁でうどんを食べ続け、田植えが終わってしばらくして夏の訪れとともにうどんを冷汁で食べるようになるサイクルが20年ほど前までの暮らしにはありました。地粉を捏ねて、「うどん場」でよく踏んで、めん棒で伸ばして包丁で切るのは1時間ほど掛かる作業で大変ですが、ともかく懐かしい気がします。
平成初期まではどの家にも台所の片隅や、この辺りの方言で云うところの「西脇」という部分にうどんを打つための専用スペースがありました。それゆえ、お昼はほぼ手打ちうどんで夕食も同じく手打ちうどんとご飯の炭水化物重ね食いが多かったものです。
自家製の手打ちうどんは普通野菜(ナスやインゲン、ネギ)を油で炒めてから水を加えてダシと化学調味料、そして大量の醤油と砂糖で味を付けた「真っ黒」なつけ汁で食べます。関西圏の人はもちろんですが南関東の人でもびっくりするほど「真っ黒」くてしょっぱいつけ汁は北関東の味です。秋冬春とそのつけ汁でうどんを食べ続け、田植えが終わってしばらくして夏の訪れとともにうどんを冷汁で食べるようになるサイクルが20年ほど前までの暮らしにはありました。地粉を捏ねて、「うどん場」でよく踏んで、めん棒で伸ばして包丁で切るのは1時間ほど掛かる作業で大変ですが、ともかく懐かしい気がします。
2024年07月11日07:22トトロの杜

荒川側から坂道を登ると

トトロの杜のような雑木林に棲む生き物たち
我が家のある荒川右岸の河岸段丘最上部へと、低地側から急な勾配を登る途中の風景は、この数十年ほとんど変わっていないように思えます。画像のような細いアスファルトの小径の両側には鬱蒼と茂る雑木林が続き、日差しも木々に遮られてその木陰は夏の昼でも湿度を感じます。
東京から1時間弱のこの雑木林には驚くほど多様な生き物が棲んでいて、タヌキやキジといった比較的ポピュラーなものの他に、野ウサギ(実は画像にも小さく映り込んでいます)やイタチ(サイズが小さいのでもしかしたらイイズナかもしれません)にウズラ、ハクビシンやアライグマといった外来種に、アナグマやキツネのようなかなりレアな動物までが存在します。蛇もアオダイショウ、ヤマカガシそして危険なマムシが頻繁に見られます。
鳥類では珍しいところだとアカゲラ(キツツキ)や大きなフクロウが姿を見せることがあります。
植物相はまさに雑木林と呼ぶのにふさわしく、雑多な樹々が入り乱れて生えており、ナラ、ブナ、ヒノキ、ヤマグリ、フジ、ヤマザクラ等の他に土地の境界や古くに開墾された小さな畑だった場所に養蚕で使われたクワが大きく育ってしまっていたり、クリやビワが植えられたまま忘れ去られていたりします。
桑(クワ)は養蚕で使われるカイコ(蚕)の餌としてその葉が利用されました。この地域では江戸時代に養蚕が盛んになり、古くからある農家には大抵蚕屋という専用の納屋があって、其処では何十万匹ものカイコが育てられていました。昭和の終わり頃まであったクワ畑は今はもうありませんが、その名残のクワの樹があちらこちらに半ば自生したように大きな枝ぶりを伸ばしています。
昼なお暗い小径が通り抜ける緑のトンネルは、まるでジブリ作品に出てくる田舎の景観そのものです。
お酒を飲んで帰ってくるときはバスを使うのですが、最寄りのバス停から家までは15分ほど歩かなくてはならず、街灯もまばらな真っ暗な道は本当にトトロの作品世界のようです。さすがに時代のせいか、私がこどもの頃は雑草が生えたあぜ道だった小径も舗装され、従来白熱灯や蛍光灯だった森の中の電柱についている常夜灯もLED化されましたが、それでもなお昭和50年代にタイムスリップした雰囲気は失われていません。
東京から1時間弱のこの雑木林には驚くほど多様な生き物が棲んでいて、タヌキやキジといった比較的ポピュラーなものの他に、野ウサギ(実は画像にも小さく映り込んでいます)やイタチ(サイズが小さいのでもしかしたらイイズナかもしれません)にウズラ、ハクビシンやアライグマといった外来種に、アナグマやキツネのようなかなりレアな動物までが存在します。蛇もアオダイショウ、ヤマカガシそして危険なマムシが頻繁に見られます。
鳥類では珍しいところだとアカゲラ(キツツキ)や大きなフクロウが姿を見せることがあります。
植物相はまさに雑木林と呼ぶのにふさわしく、雑多な樹々が入り乱れて生えており、ナラ、ブナ、ヒノキ、ヤマグリ、フジ、ヤマザクラ等の他に土地の境界や古くに開墾された小さな畑だった場所に養蚕で使われたクワが大きく育ってしまっていたり、クリやビワが植えられたまま忘れ去られていたりします。
桑(クワ)は養蚕で使われるカイコ(蚕)の餌としてその葉が利用されました。この地域では江戸時代に養蚕が盛んになり、古くからある農家には大抵蚕屋という専用の納屋があって、其処では何十万匹ものカイコが育てられていました。昭和の終わり頃まであったクワ畑は今はもうありませんが、その名残のクワの樹があちらこちらに半ば自生したように大きな枝ぶりを伸ばしています。
昼なお暗い小径が通り抜ける緑のトンネルは、まるでジブリ作品に出てくる田舎の景観そのものです。
お酒を飲んで帰ってくるときはバスを使うのですが、最寄りのバス停から家までは15分ほど歩かなくてはならず、街灯もまばらな真っ暗な道は本当にトトロの作品世界のようです。さすがに時代のせいか、私がこどもの頃は雑草が生えたあぜ道だった小径も舗装され、従来白熱灯や蛍光灯だった森の中の電柱についている常夜灯もLED化されましたが、それでもなお昭和50年代にタイムスリップした雰囲気は失われていません。
この地域の100年後を想像する
私たち家族の住むこの辺りの過去からのタイムラインは大雑把にはこんなところです。
では今から100年経った先はどのようになっているでしょうか。
消滅可能性都市に挙げられるような過疎化の進む地域ですから、この周辺の集落も人口の流出が進んでいますし新しい流入もほとんどないですから地域社会の概観やインフラは変わらないままでしょう。雑木林を伐採して再生可能エネルギー設備(比較的大規模な太陽光発電)があちらこちらにできてはいますが、それらは河岸段丘の南面にある傾斜に多く、大抵は周辺を森に目隠しされているので作られ始めた頃は異観と感じていましたが既に10年以上の年月が経過している為、それらさえこのあたりの景観になじんでしまった風でもあります。
とはいえ、再生可能エネルギーというイメージとは裏腹に環境破壊していることに変わりはないので、ニュースでの再生可能エネルギー賛美の風潮は正直なところ辟易です。これは例えば原発や火力発電所を生活エリアの近隣に建てられた住民の気持ちとなんら変わりません。
ちょうど鎮守の杜のように、その境内を目隠しするように森が取り囲んでいるので、直截全容が見えない太陽光パネルや工業団地の各施設は昔から其処に在ったかのような佇まいでさえあります。
個人的なイマジネーションでは、それはちょうどバレエ「眠りの森の美女」で眠らされてしまったオーロラと一緒に目覚めるまでリラの魔法で時を停められた森の中に隠されたお城のようです。
100年後でも、この地域の風景は相変わらずなのかもしれません。
では今から100年経った先はどのようになっているでしょうか。
消滅可能性都市に挙げられるような過疎化の進む地域ですから、この周辺の集落も人口の流出が進んでいますし新しい流入もほとんどないですから地域社会の概観やインフラは変わらないままでしょう。雑木林を伐採して再生可能エネルギー設備(比較的大規模な太陽光発電)があちらこちらにできてはいますが、それらは河岸段丘の南面にある傾斜に多く、大抵は周辺を森に目隠しされているので作られ始めた頃は異観と感じていましたが既に10年以上の年月が経過している為、それらさえこのあたりの景観になじんでしまった風でもあります。
とはいえ、再生可能エネルギーというイメージとは裏腹に環境破壊していることに変わりはないので、ニュースでの再生可能エネルギー賛美の風潮は正直なところ辟易です。これは例えば原発や火力発電所を生活エリアの近隣に建てられた住民の気持ちとなんら変わりません。
ちょうど鎮守の杜のように、その境内を目隠しするように森が取り囲んでいるので、直截全容が見えない太陽光パネルや工業団地の各施設は昔から其処に在ったかのような佇まいでさえあります。
個人的なイマジネーションでは、それはちょうどバレエ「眠りの森の美女」で眠らされてしまったオーロラと一緒に目覚めるまでリラの魔法で時を停められた森の中に隠されたお城のようです。
100年後でも、この地域の風景は相変わらずなのかもしれません。