トトロ
2024年07月11日20:56里芋の大きな葉

里芋の葉に梅雨の雨滴

仕事が休みだったので、植えたばかりのネギの周囲に雑草が出始めているのを綺麗にしていると、雨足が強くなってきました。
キリの良いところで手を止めて、今日の手入れは終了です。
本格的な夏の前に、できるだけ雑草を取っておきたいのですが生業が忙しくて休みまでのスパンが長くなってきてなかなか進みません。リタイアして毎日家にいるような状況にでもならない限り、労働集約的な作業はどれだけ効率化を図っても実際に費やした時間が必要です。一人ではとても無理なので、やはり家族で協力して作業時間を確保していく必要があります。
手を止めた時、視界の隅に背丈ほどに成長した里芋が見えました。
里芋の葉はともかく大きくて茎もしっかりしているので、こどもなら傘の代わりにもできるくらいです。
我が家の畑にも毎年里芋の葉が林立するので、梅雨時には一本切り取ってこどもに持たせて写真を撮ったりします。
どうも里芋ばかりではなく、ヤツガシラという里芋のお化けみたいなものも交じっているようです。
キリの良いところで手を止めて、今日の手入れは終了です。
本格的な夏の前に、できるだけ雑草を取っておきたいのですが生業が忙しくて休みまでのスパンが長くなってきてなかなか進みません。リタイアして毎日家にいるような状況にでもならない限り、労働集約的な作業はどれだけ効率化を図っても実際に費やした時間が必要です。一人ではとても無理なので、やはり家族で協力して作業時間を確保していく必要があります。
手を止めた時、視界の隅に背丈ほどに成長した里芋が見えました。
里芋の葉はともかく大きくて茎もしっかりしているので、こどもなら傘の代わりにもできるくらいです。
我が家の畑にも毎年里芋の葉が林立するので、梅雨時には一本切り取ってこどもに持たせて写真を撮ったりします。
どうも里芋ばかりではなく、ヤツガシラという里芋のお化けみたいなものも交じっているようです。
こどもたちの小さい頃に記念撮影
トトロの1シーンのようなポートレートは良い思い出になりそうです。


2024年07月11日07:22トトロの杜

荒川側から坂道を登ると

トトロの杜のような雑木林に棲む生き物たち
我が家のある荒川右岸の河岸段丘最上部へと、低地側から急な勾配を登る途中の風景は、この数十年ほとんど変わっていないように思えます。画像のような細いアスファルトの小径の両側には鬱蒼と茂る雑木林が続き、日差しも木々に遮られてその木陰は夏の昼でも湿度を感じます。
東京から1時間弱のこの雑木林には驚くほど多様な生き物が棲んでいて、タヌキやキジといった比較的ポピュラーなものの他に、野ウサギ(実は画像にも小さく映り込んでいます)やイタチ(サイズが小さいのでもしかしたらイイズナかもしれません)にウズラ、ハクビシンやアライグマといった外来種に、アナグマやキツネのようなかなりレアな動物までが存在します。蛇もアオダイショウ、ヤマカガシそして危険なマムシが頻繁に見られます。
鳥類では珍しいところだとアカゲラ(キツツキ)や大きなフクロウが姿を見せることがあります。
植物相はまさに雑木林と呼ぶのにふさわしく、雑多な樹々が入り乱れて生えており、ナラ、ブナ、ヒノキ、ヤマグリ、フジ、ヤマザクラ等の他に土地の境界や古くに開墾された小さな畑だった場所に養蚕で使われたクワが大きく育ってしまっていたり、クリやビワが植えられたまま忘れ去られていたりします。
桑(クワ)は養蚕で使われるカイコ(蚕)の餌としてその葉が利用されました。この地域では江戸時代に養蚕が盛んになり、古くからある農家には大抵蚕屋という専用の納屋があって、其処では何十万匹ものカイコが育てられていました。昭和の終わり頃まであったクワ畑は今はもうありませんが、その名残のクワの樹があちらこちらに半ば自生したように大きな枝ぶりを伸ばしています。
昼なお暗い小径が通り抜ける緑のトンネルは、まるでジブリ作品に出てくる田舎の景観そのものです。
お酒を飲んで帰ってくるときはバスを使うのですが、最寄りのバス停から家までは15分ほど歩かなくてはならず、街灯もまばらな真っ暗な道は本当にトトロの作品世界のようです。さすがに時代のせいか、私がこどもの頃は雑草が生えたあぜ道だった小径も舗装され、従来白熱灯や蛍光灯だった森の中の電柱についている常夜灯もLED化されましたが、それでもなお昭和50年代にタイムスリップした雰囲気は失われていません。
東京から1時間弱のこの雑木林には驚くほど多様な生き物が棲んでいて、タヌキやキジといった比較的ポピュラーなものの他に、野ウサギ(実は画像にも小さく映り込んでいます)やイタチ(サイズが小さいのでもしかしたらイイズナかもしれません)にウズラ、ハクビシンやアライグマといった外来種に、アナグマやキツネのようなかなりレアな動物までが存在します。蛇もアオダイショウ、ヤマカガシそして危険なマムシが頻繁に見られます。
鳥類では珍しいところだとアカゲラ(キツツキ)や大きなフクロウが姿を見せることがあります。
植物相はまさに雑木林と呼ぶのにふさわしく、雑多な樹々が入り乱れて生えており、ナラ、ブナ、ヒノキ、ヤマグリ、フジ、ヤマザクラ等の他に土地の境界や古くに開墾された小さな畑だった場所に養蚕で使われたクワが大きく育ってしまっていたり、クリやビワが植えられたまま忘れ去られていたりします。
桑(クワ)は養蚕で使われるカイコ(蚕)の餌としてその葉が利用されました。この地域では江戸時代に養蚕が盛んになり、古くからある農家には大抵蚕屋という専用の納屋があって、其処では何十万匹ものカイコが育てられていました。昭和の終わり頃まであったクワ畑は今はもうありませんが、その名残のクワの樹があちらこちらに半ば自生したように大きな枝ぶりを伸ばしています。
昼なお暗い小径が通り抜ける緑のトンネルは、まるでジブリ作品に出てくる田舎の景観そのものです。
お酒を飲んで帰ってくるときはバスを使うのですが、最寄りのバス停から家までは15分ほど歩かなくてはならず、街灯もまばらな真っ暗な道は本当にトトロの作品世界のようです。さすがに時代のせいか、私がこどもの頃は雑草が生えたあぜ道だった小径も舗装され、従来白熱灯や蛍光灯だった森の中の電柱についている常夜灯もLED化されましたが、それでもなお昭和50年代にタイムスリップした雰囲気は失われていません。
この地域の100年後を想像する
私たち家族の住むこの辺りの過去からのタイムラインは大雑把にはこんなところです。
では今から100年経った先はどのようになっているでしょうか。
消滅可能性都市に挙げられるような過疎化の進む地域ですから、この周辺の集落も人口の流出が進んでいますし新しい流入もほとんどないですから地域社会の概観やインフラは変わらないままでしょう。雑木林を伐採して再生可能エネルギー設備(比較的大規模な太陽光発電)があちらこちらにできてはいますが、それらは河岸段丘の南面にある傾斜に多く、大抵は周辺を森に目隠しされているので作られ始めた頃は異観と感じていましたが既に10年以上の年月が経過している為、それらさえこのあたりの景観になじんでしまった風でもあります。
とはいえ、再生可能エネルギーというイメージとは裏腹に環境破壊していることに変わりはないので、ニュースでの再生可能エネルギー賛美の風潮は正直なところ辟易です。これは例えば原発や火力発電所を生活エリアの近隣に建てられた住民の気持ちとなんら変わりません。
ちょうど鎮守の杜のように、その境内を目隠しするように森が取り囲んでいるので、直截全容が見えない太陽光パネルや工業団地の各施設は昔から其処に在ったかのような佇まいでさえあります。
個人的なイマジネーションでは、それはちょうどバレエ「眠りの森の美女」で眠らされてしまったオーロラと一緒に目覚めるまでリラの魔法で時を停められた森の中に隠されたお城のようです。
100年後でも、この地域の風景は相変わらずなのかもしれません。
では今から100年経った先はどのようになっているでしょうか。
消滅可能性都市に挙げられるような過疎化の進む地域ですから、この周辺の集落も人口の流出が進んでいますし新しい流入もほとんどないですから地域社会の概観やインフラは変わらないままでしょう。雑木林を伐採して再生可能エネルギー設備(比較的大規模な太陽光発電)があちらこちらにできてはいますが、それらは河岸段丘の南面にある傾斜に多く、大抵は周辺を森に目隠しされているので作られ始めた頃は異観と感じていましたが既に10年以上の年月が経過している為、それらさえこのあたりの景観になじんでしまった風でもあります。
とはいえ、再生可能エネルギーというイメージとは裏腹に環境破壊していることに変わりはないので、ニュースでの再生可能エネルギー賛美の風潮は正直なところ辟易です。これは例えば原発や火力発電所を生活エリアの近隣に建てられた住民の気持ちとなんら変わりません。
ちょうど鎮守の杜のように、その境内を目隠しするように森が取り囲んでいるので、直截全容が見えない太陽光パネルや工業団地の各施設は昔から其処に在ったかのような佇まいでさえあります。
個人的なイマジネーションでは、それはちょうどバレエ「眠りの森の美女」で眠らされてしまったオーロラと一緒に目覚めるまでリラの魔法で時を停められた森の中に隠されたお城のようです。
100年後でも、この地域の風景は相変わらずなのかもしれません。